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(現代語訳)福澤諭吉『通俗民権論』 第五章 家産を修むる事

福澤諭吉(1878)『通俗民権論』http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994059

内、「第五章 家産を修むる事」

福澤諭吉『通俗民権論』 第五章 家産を修むる事 - 牛丼時給調査会
を現代語になおしたものです。訳は意訳であります




福澤諭吉(1878)『通俗民権論』
第五章 家産を修むる事

「ボロいどてらを着たまま、キツネ皮・ムジナ皮のご立派な服を着た人と並んで立っても恥と思わない者は、由(子路)君くらいのものだ」とは、孔子子路が貧乏をものともせず、キビキビしていたことを誉めた言葉だという。つまりは、周の時代の子路だからこそこのような様子であったし、孔子だからこそこの評価をつけたのだし、師弟の仲がよく互いの精神面まで知っていたのだ。そりゃあそこまですれば貧乏も美談の種となったんではなかろうか。
 ただ今は孔子の時代ではないのだ。世界の人々がみんな師弟関係にあるわけがない。貧乏人ががんばっても、人に誉められるのは非常に難しい。世のために事を成さんとする者はすべて、まずは世間に信用してもらうことが非常に大切だ。
 そして信用を得る方法とは、やれ品行だー年齢だー家柄だー身分だーといっても、俗世間という大海原ではカネ持ってるかどうかが最も大きいところだ。例えばカネを借りるとき。借主が行いに邪なく、子路のように義勇に優れていても、ボロい綿入を着て朝夕の飯にも困るようではカネを貸す者はいない。カネを貸さないということはつまり、この人を信用していないということだ。世間の人がみんな、この貧乏人のひととなりをご存知で―孔子子路を知っていたように―であるようにすれば、貧乏人へカネを貸すこともできるだろうけれども、世の中は広すぎて一人ひとりの心の中まで全部見て回っていたらとても時間が足りなくなる。ただ十把一絡げに「貧民」であるとして排斥されるのが常である。西洋諸国で、議員を選挙するとき、財産の多寡を目安にするのもこのためだろう。今の俗世間では、知やら徳やらよりもとにかくカネ稼ぎの能力だといってもいい。だから、「道徳」から見ればカネはかえって人間の足を引っ張るものであるといっても、仮にも現世で一旗揚げるつもりで、信用を得ることが大切だと知っているなら、カネをさげすむのはやめることだ。


 これに加え、人間、財産がないということは、まさしく知恵や人徳を高める方法がないということであろう。いま、路傍の乞食をあわれんで一銭を渡しても、公共の便益をはかって千円を突っ込んでも、どちらも喜捨喜捨であり同じ精神から出た行動だけれども、その効果の量にいたっては一と十万との差がある。とりもなおさず前者の智徳は一、後者の知徳は十万であると言わざるを得ない。世間へのインパクトもまた、一と十万との差があって、例えば前者の一銭で動く者は一人、後者で動かされる人間は十万人となるだろう。これを「甲乙徳望の差」と言ってもいいだろう。
 さてこのように、元来まったく同じ精神から出た行動なのに、世間から受けた名声や人望に違いが出るのはなぜか。それは、出したカネが多かったか少なかったか、ただそれだけの違いなのだ。今も昔も、知恵も徳もあるのにカネがなかったがためにその才能、志を伸ばすことが出来なかった人が多かったのも、理由がないわけではないのだ。だから言うのだ。「財産は、人々が知恵・徳を高め、実践するための方便なのだ」と。


 人としてカネが嫌いなものはなし。カネ無きを心配しないものはなし。いまさらだらだらとその理由を語るのもほとんど無益ではあるけれど、今の日本の人情には、実際はカネを大事にしている一方でカネを軽んじる空気がある。往々にしてその空気に流されてカネに困るものが少なくない。思うに我ら士族は、封建時代、禄をもらって生活していた。何もしないでも衣食を支給され、食うに困るということを知らなかった。この士族の気風でもって社会を支配していたから、ついには「利」という文字を人付き合いの禁句となすに至ったほどの大事であるから、今日にあって士族は無論、農家商人に至るまで、いまだ、にわかにこの風習を変えることができていない。あるいは清貧を楽しむ者もいる。たとえ本当は貧乏が面白くなくても、自ら「貧乏は楽しい」と嘘をつく。これでは世間の人もとがめることはできない。(逆に)そとづらは「淡白風流」をほめたたえているくらいだ。そうであっても、事実は、カネの力ははなはだ盛大であって、人の世は十中八九はカネによるもので、その権利の多くはカネ持ちの手に入っていき、清貧の市民はこういうときは眼中に入れてもらえず、心おだやかになどしていられない。この世は意のままにはならんなあと一人で嘆いている程度ならまだいいが、不如意の原因を自分がカネを軽視したことに求めず世間のせいにして、「世間は誰も俺を知らない」「人を見る目のない愚民どもが」などと言い出し、世界を怨み他人をねたみ、時としてはその鬱憤破裂して社会の安全を害するに至るものがないわけではない。 その本源はといえば、一部の市民がカネを軽んずる空気に欺かれ、世の中は十中八九がカネ次第という実情を知らず、財産をすっかり失ってしまった罪である。これが本編で民衆の権利を論じる中、ことさらにカネの大切さを主張する理由である。今の民権論者は、その持論でもって社会を変えてやろうと目論むわけだ。一方で私は、社会世俗の代弁といってはなんだが、最近の民権論者にこう告げることがある。
「俗世界は少しは諸君の説を聞いているかもしれない。しかし君がどこに住んでるかすら僕は知らないなあ。君の居処を知っていても、君の財産と議論のスケールのでかさとは、不釣合なんじゃないかなあ。もっと言えば、君は天下の義理を論じてる一方で、君ら個人はカネ返して無いだろうよ、俗世間は天下国家の議論を聞く暇なんてないよ。ニートの軍師様がいくら虎みたいに吠えたところで、俗世間の耳に届くには声量が足りないのだよ」と。