以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の第四講演「-進数と無理数論」を@tacmasiが新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
底本は国立国会図書館コレクションのものを用いています。
国立国会図書館デジタルコレクション - 大阪帝国大学数学講演集. 第1
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-進数と無理数論
昭和9年11月8日
今日は-進数と無理数論をお話するはずでした。ゆうべ少し考えてみたが、とてもまとまりかねるから、その一部分無理数に関係したことを述べる。別に新しいことではなく、古くからの問題である。
昔は数よりもむしろ量あるいは数量と言ったもものが、もとの何というかprimärな考えである。それから数が出てきたと考えられる。量を特徴づけるために三つのAxiom(公理)を設ける。
I.量を集合と考えるとその要素の間に
のいずれかひとつが成立する。すなわち大小の公理。
(これに関しては普通の関係式例えばならば等のことはすべて成立するものとする)
II.連続性の公理。これはDedekindの切断によって規定する。
このふたつだけでは足りない。それは古い本にはmessbar(測り得る)と言っていた、量を測ることに関する公理、
III.加法の公理。
我々が普通、量と言うのはいわゆる絶対的の量である。正とか負とかいうのは二次的のもので、拘泥しないで言えば絶対値である。しかるとき加法は交換律および結合律の外に大小の意味にしたがって単調なるものとする。すなわち
これだけで我々の量を特徴づけることができる。これを量と考えてそれを表す表現(Darstellung)として数を考える。歴史的にはかくして現今の数の概念が出来たのであるが19世紀以後の解析教程においては量はのけられておる。それには歴史的原因があるが、量を離れていきなり無理数の定義が出てくる。なるべく早くやろうとするために、そこでは特に正ということは出てこないので正も負も一緒に込めて実数論をはじめに置く。正は絶対値として使われるのである。はじめに絶対的の量と言うたのは絶対値であったのだから今のような因縁を言えば絶対値のほうが古いのであるが、解析においては絶対値は従属的な位置にあった。近頃はBewertungstheorieによって絶対値が大いに名声を回復した。そんな考えから-進数と無理数論をお話しようとしたのであるがとても筋を立ててお話することはできない。
今I,II,IIIによって規定される量の表現として数を考える。なるべく手軽にしようとすれば無限小数を使うとよい(何進法でもよいが、仮に10進法を使う)。数字の無限の列
を考える。ここには任意の整数では0から9までの間の数値である。これについては先に簡易なる無理数論として書いたことがある。10進法で実数を組み立てようとすると、それはあまり俗なものだ、下等だ、DedekindやCantorそのままの方が権威があるといって叱られるかも知れないが、を表現するSystemを作ってしまえばよいから技術的に簡単な方がよいと思う。
まず大小の規定であるが、ふたつの数字列
においてその整数部分ととを比べて大きい方をもって大とする。とが同じならば小数第一位の文字ととを比べてその大きい方をもって大とする。さらにとも同じならば小数第二位の数字ととを比べる。等々。このようにして大小が定まる。もちろんすべての数字が一致すれば相等しいとするのである。この大小の意味に従って今考える数字列(単に数と呼ぶ)の全部が連続の定義を満足しなければならない。連続の結果としてふたつの相異なる数の間にまた数が存在しなければならない。今
を異なるとすればどれかの数字が異なる。どこで異なっていても話は同じことだから、仮にとする。が相続く整数でなければととの間に来たる整数を整数部分とする数字列がととの間に来ることは明らかである。が相続く数であるとき、例えば4,5となるときととの間に来たる数はかまたはである。とすれば後ろに続く数字がどこかでの数字よりも小さくならねばならない。それができないのは0が続いてがとなるときである。とすればどこかでの数字よりも大きくならねばならない。それができないのは9が続いてがとあるときである。それで形式的に相異なるふたつの数
は相等しいとしなければならない。このように大小の定義をmodifyするのである。かくすれば連続性が成り立つ。連続性を証明するには次の定理を証明すればよい。
数字列の集合
が有界とすると上限がある。整数部分を考えると有界だからその中で一番大きいものがある。それをとする。次に整数部分がとなるものばかりをとって小数第一位の数字を考えるとその中で一番大きいものがある。それをとする。このようにしてひとつの確立した数ができる。それがlimes.
次に加法。無理数論において有理数を仮定すると同様に有限小数を用い有限で切っておいて和を作りlimesをとる。
上の三つの公理において第三の加法の公理ははじめの二つと比べてconventionalだとかつて私は書いたが量を長さとして考えるとadditionなぞはnaturalである。もしのDarstellungとしてtimeを考えると時間のadditionはすてきにconventionalだ。時間は動かぬものだから時間の和はconventionalと思うのである。それで加法を今少し変えることはできないか?すなわちどんな表現に対しても公平で自然的なAxiomで第三の加法の公理をおきかえることができないであろうか?うまく行かない。結論は持ち合わせていない。
homogenという性質は空間においても時間においても自然的である。加法ができればもちろんhomogenであるがhomogenだけでは加法は出ない。Hilbertが使ったSymbol
ここでは実数でやはただ記号である。実はと書いてもよい。このSymbolの間に大小を定義する。
それにはさきに述べた小数の場合とまったく同じようにまずの大小によって、それで行かなければの大小によって、さらにそれで行かなければの大小によってというようにして大小の順位を決める。かくして大小の公理が成立する。この大小においては連続性は成り立たない。もし端を加えてまたはとすればちょうど先の小数の場合に大小の定義を少し修正して連続性が成り立ったと同様にここでも連続になる。端がないためにLückeができるので端をこしらえれば連続になるのである。すべての実数というかわりにとしても連続性が成立する。しかし加法は不可能。もし可能ならば
の全体が我々の普通の意味の実数になる。しかしhomogenではある。したがってhomogenだけで加法を置き換えることはできない。数年前そんな問題を考えてみた。加法可能を当然としてのみこめばそれまでであるが、めくらで時間の観念しかない者には加法のAxiomはnaturalであるまいと思われる。
無限小数としての表現法をあまり軽蔑されるといけないからHilbertのSystemをもってきて、それと似ているからそれで信用を得ようというわけである!
[追記]I,IIの両公理に適合する「最小」minimumの型といえば実数と同型の集合が得られるであろう。しかしそれは消極的でまずい。それを言いもらした。
連日でたらめを言い、まことに不謹慎、不作法な言葉を用いたが悪意があるわけではなく、意味を強調するために礼節を失したのである。それにもかかわらず忍耐、寛大をもってお聞きくださったことを感謝する。
(高木貞治.「p-進数と無理数論」. 大阪帝国大学数学講演集. 第1, 岩波書店, 1935, pp.29-38)
(おわり)