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高木貞治 述, 大阪帝国大学数学講演「過渡期の数学」

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の第一講演「過渡期の数学」を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
底本は国立国会図書館コレクションのものを用いています。
国立国会図書館デジタルコレクション - 大阪帝国大学数学講演集. 第1
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高木貞治「過渡期の数学」
大阪帝国大学数学講演, 昭和9年11月5日

私が高木です。大阪帝大の学生諸君とは今回がはじめてです。私は知らない人に話をするのはどうも不得手ですから分かりにくいかも知れない。過渡期の数学と題したのははじめそう予定したのですが、これから話すことが果たして当たっているかどうか分かりません。

数学の歴史を後から振り返ってみると、いろいろ時代と共に変遷したことは確かですが、それを進歩とみて絶えず進歩した言ってしまえばそれきりであるが、その状況を見れば必ずしもなだらかに一様な速さで進んでいるとは見られない。それをごく大まかなcurveで示すとfirst approximationとしてTreppen-Funktionと見られる。すなわち階段的になっている(図1)。進歩の速度は階段的に昇っていく。さらに詳しく言えば図2のようになるであろう。遠方は我々の頭の中に直線的に感ぜられるが近いところでは平坦と言えないかも知れない。
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一番はじめの階段は微積分学の発見時代に相当する。それからが、ギリシャ伝来の数学に対する広い意味の現代的数学であります。かくして新しい領分が開けたわけですから、直後は高まるというよりもむしろ広まる時代、拡張の時代です。それが18世紀の数学です。19世紀に移るあたりにやはりかかる階段(Treppe)があります。すなわちこの時も急激に変わった時代です。一人の代表者を選ぶならば例えばGauss. 急激に変わりつつある時代を過渡期と言うならば現代も過渡期のうちでしょう。私はそういう一つの「テーゼ」を提出したい。ちょうどこれは20世紀の始まりです。

もしも数学者の表を時代順に書き込めばTreppeのところに、殊にTreppeの直後のところに密に集まるだろうと思われる。この図では上に昇るようにcurveを書いたが広がるようにもなります。はじめは知識が水の滴りのように集まって川のごとく自らの道を拓きつつ進む。それがある障害に出逢うと真っ直ぐに進むことは止まる。そして先へ行く代わりに横に広がる。ある時期を過ぎると障害を乗り越える高さに達しちょうど滝のごとく一気に下の平野に広がっていく。そういった後は急に広くなる。つまり行き詰まりを生ずる時が来る。来なければそれきり。来ればそれを打開して同じようなことが繰り返されるのである。行き詰まりの前は停滞しそれを乗り越えるとまた勢いを得る。そういうことは当然あって然るべきことです。

行き詰まりを乗り越えるのだと考えると、行き詰まりの時代にどうして局面をひらくことができるか、すなわち行き詰まりを打開する原動力は何であるかというに、Cantorの言ったように「数学の本質はその自由性にあり」と言うならもっともらしい。自由性とはFreiheitの訳です。日本語では自由という言葉ははじめ政治的の意味に使われたのだからFreiheitとしっくり合わぬかもしれない。Freiheitとは囚われない、拘束されないという意味です。freiでない例は卑近なところにたくさんあるが多すぎて却って挙げにくい。例えば私の家の電話番号は4823ですがこの3桁と4桁との間に"コンマ"を入れて4,823と書いている。パリのように48|23とすれば分かりよいのに、何でも3桁おきに"コンマ"を付けねばならないと思うならば、それはひとつの囚われです。また自動車の速度10マイル以内という札がメートル法により換算されて16.78...km.となっているのも囚われた例のひとつです。この言葉をCantorが言った機会を詳しく調べたことはないがCantorがかく言った動機は容易に想像される。彼が集合論を言い出した時、当時の先輩達から容易に理解されなかった。彼らは彼と同様にfreiには考えてくれなかった。そこに障害があった。それに反抗するような境遇にあったからそういう言を出す機会はいくらでもあったであろう。

数学でよく拡張と言うことを言いますがFreiheitと同様な意味の相通ずるところがあります。真の拡張はfreiでなければできません。拡張は数学史上重大な事項です。拡張するためには元あった制限を除かなければならない。抽象、abstractionが拡張のひとつの手段です。抽象はもとあった具体的なものをのけてすべてを含む新しいものを作り出すことです。抽象化の際立って進むのが先に述べたような階段のところだと言えば言われる。現代が急激に変わる数学の過渡期だろうというようなことを言ったが現代はまた特に抽象化の著しく目立つ時代である。歴史というものは振り返って見てわかることだから現代においてはそれが過渡期であるか否か分からないが今は過渡期であろう、すなわち急激に変わりつつある時代だろうということは確からしい。なぜかというに少しなまけているとわからなくなってしまう。それは現に私が実験しつつある。とにかく現在急激に変わりつつあることは確かで、その一番主な現象は抽象化です。事実は世界大戦の終わり頃すなわち1920年頃から今日まで約10年の間に起こりつつある。抽象の過程が時期に投じたのである。それがどこまで行くかわからないがとにかくそれが始まりつつある。現在は変化が始まったばかりゆえそれだけで済んでしまうものかどうか分からない。あるいはもっと先に進んでいくかも知れない。これに新しい動機が加わってくるかも知れない。

数学の中の専門が増えて困るということをよく聞く(これは私ばかりかも知れないが)。Kleinが「3つの大きなA」ということをよく言った。それはArithmetik,Algebra,Analysisを指すので、これが数学の大きな分科である。もっとも幾何学も大きな分科であるがKleinはこれを別格に扱った。3つのAに更に幾何学を入れてもよい。このように分科をもって予め用意された引き出しに整理するが、その分科が増えてくるので、これでは整理ができかねるということを聞いた。しかし今はもうそういうことを言っても仕方がないから言わなくなったのかあるいは耳に慣れたのかもしれないが一時ほど著しくはないようである。むしろ分科の多いのを喜ぶ傾向があるかに見える。あらかじめ用意した引き出しの中に入れることをあきらめてしまえば、分科など多いほど賑やかでよいのだろう、現今数学の分類をするならば、modernとclassic,古典と新代に分けたらどうだろう。それが重要な分類と考えると双方に盛り込まれる「3つのA」だとか幾何学だとかいう数学の分類には第二次的になってくるので、そういう声は大した印象を与えなくなる。古典と新代の対立、かかることはいつの過渡期においても常に起こったのではなかろうかと思われる。つまり興味の対象が変わるのである。悪く言えば流行が変わるのである。従来興味の中心とされていたものがいつの間にか忘れられ、前には全く省みられなかったものが興味の中心となるのである。幸い各時代を代表する有名な本が残っている。classicといっても別に軽蔑するわけでもなくまた劣っておるわけでもないがいわゆる古典なるものを読むと実に退屈なものです。どうしてそんな事に興味をもったのか今から考えると分からないことがある。必ずしもclassicが悪いというわけではないが、それに対する評価が変わるのである。Cantorの格言を言い換えるならば、「数学に経典なし」であろう。

とりとめもないことを述べたが、要するに過渡期の特徴は第一、非常に急激に変わるゆえ少しなまけているとわからなくなる。興味の対象が変わってくる。これからはじめて数学をやろうという人には参考になるかもしれない。いつもと違う過渡期であるから、今ひとつはclassicとmodernの対立。数学を「3つの大きなA」だとか幾何学だとかに分けて考えるのはstableの時ならいいが過渡期となるとむしろmodernとclassicに分けたほうがよい(classicが悪いのではない。classicには深いところがある)。これから勉強するものは早く専門を決めないで深くというよりは早く広く行ったほうがよい。伝統的の分類によって何をやろうなどとは言わないほうがよい。

(高木貞治.「過渡期の数学」. 大阪帝国大学数学講演集. 第1, 岩波書店, 1935, pp.1-6)


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