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高木貞治 述, 大阪帝国大学数学講演「解析概論」

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の第二講演「解析概論」を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
底本は国立国会図書館コレクションのものを用いています。
国立国会図書館デジタルコレクション - 大阪帝国大学数学講演集. 第1
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高木貞治「解析概論」
大阪帝国大学数学講演 昭和9年11月6日


少し遅刻しました。私は遅刻の常習犯です。今日は解析概論という題でお話するつもりで来ました。知識の宝庫ということをよく言いますが、それはいろいろ解釈がつく。ごくぼんやり言えば諸君が毎日講義を聞いてノートに書くと、ノートがその知識の宝庫になり、一年の間にかなりの分量になる。一般に知識というといろいろの意味があるであろうが、ここでは数学でいう意味の知識、つまり真なるものと言えば、それだけの意味でそれ以外のことを含まない。ポアンカレがどこかで「真なるもの(verité)のみが愛すべきものである(aimable)」と言っておる。そんな意味で、今お話しようとしている。veritéという言葉をいつか日本語で書く必要にせまられた。真なるものというとはっきりするようだが真理などというとveritéというよりもさらにエライものを含んでいるらしい。何だか大したもので、天の上にあって近づきがたいものだという気がする。その代わりまた真ならぬものを含むかもしれない。"真なるもの"などあまり熟した語ではないが「まこと」というとveritéはだいぶ違うようだ。とにかく真なるものというのは、そんな荘厳なものでなく手近なもので例の宝の倉としてたくさんあるとはノートを取ることから皆経験されている。「真なるもののみ愛すべし」と言っても「真なるものすべて愛すべし」と言ったのではない。それは裏である。裏を考えれば知識の宝庫はまた同時に知識の"ガラクタ"である。別に知識そのもの、真なるものそのものに決まった価値があるわけではなく、人に対してである。別に宝というわけではなくむしろ雑然と倉の中に累積しておる、いわゆる知識の集合である。"ガラクタ"と言っては悪いかもしれないがとにかく非常に多くて少々宝という感じより現在の我々には知識は多すぎて困るものだと感じられる。

知識から宝にしようというには、宝なるものを選ばなければならない。すなわち選択の問題が起こる。先日はここの図書室(大阪帝国大学理学部図書室)を見せてもらった。片隅に知識の倉庫がぎっしり詰まっている。こちらの壁を眺めると長岡先生の額が掛かっていて「勿嘗糟粕(そうはくをなむるなかれ)」とある。何と言うか、まず痛快である。知識の倉に入っても注意せよという危険信号が掲げてある。ただ集合として存在するものに我々はいかなる態度を取るべきかが問題である。何時だったか1826年と記憶しているがアーベルの手紙の中に「自分は数学において何がessentialで何がtrivialであるか分かった。だからパリにいなくてもよい。国へ帰りたい」ということが書いてある。実際essentialとtrivialとを差別するのが学問かもしれない。ノートがたくさん溜まって試験を受けなければならない時、どこがessentialでどこがtrivialだか分かっておれば合格するがそれが分からなくて数百頁を差別なく同じように見るのでは心細い。アーベルの言のごとくessentialとtrivialとを見分けなければならない。

解析概論というのは仮にそんな名前をつけた。私は解析学をよく知らないが講義をする必要上若干の書物を読んだのですがいろいろな事実がたくさんある。それをすっかり書いてしまえば訳なくいくが狭いところにはたくさん入れるわけにはいかない。私など忘れっぽくて記憶することができない。つい先日もこんな話が出たが、試験で有名な高等学校の選抜試験であそこでは数学を暗記物として扱うからよいとかわるいとか言う。非難の意味でいうので数学は暗記物でないと言うつもりでしょう。しかしいろんなものを見るとやっぱり暗記物のようですね。誰それの定理などと実にたくさんあります。数学必ずしも暗記物でないとは言われないかも知れないと思います。すっかり包括するのならよいが、その中からあるものを選ぶとなるとたくさんのものを集めるのでなくてなるべく少しのものを集めることが必要になる。それをやろうとするとなかなかむずかしい。そこで私は一定の建物が与えられたとしてそこへ何を入れるかを問題にしたのであるが、その時一番邪魔になるのは伝統に引きずられると言うことです。後から考えるとどういうつもりでこんなものを取り入れたのだろうかと不思議に思うことがある。書くときはあまり多くの反省なく伝統に従って大切だろうと思って詰め込むというものがたくさん出てくる。いちいち当たっておると大変で始末におえない。そんなにやかましくいわなくてもよいが。

昨日も言ったようにこの頃は数学の情勢が変わりつつある時で解析の本もいろいろ出るが不思議に言い合わしたように同じ内容のものばかりである。皆伝統によって書かれておるのではないかと思われるほど一致しておるように思えた。もっとも一致しているものばかりが目につくのかも知れないけれど。むやみに伝統を破るのはよくないが、そればかりで行くといつまでも同じようなものが続くようなことになりはしないか?そうでないものが出るのもよいと思う。趣意としては枝葉的のことは第二におく。反対に何でもあるという書物もあるが選択の結果が問題になる。しかしめいめいが選ぶべきで何がessentialで何がtrivialであるかということは自ずから明らかであろう。もっとも人によって違いがあり万人向きは無理だが時代によってだいたい平均があるからその中からだいたい万人向きになるようにすることは不可能ではない。そういう意味であまり伝統によらず、なるべく大きくならないで、薄くていい本の出ることを希望しておる。

空論をお話して一向とりとめないが、ちょうどこの頃講義をしておるので覚えているのですが一つの例として級数についてお話したい。
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二重もしくは二重以上の無限級数、例えば \sum a_{m,n} の定義は2つあるように思われる。一つは \displaystyle \sum_{\mu=1,\nu=1}^{m,n}a_{\mu,\nu} = s_{m,n} として m \to \infty , n \to \infty となる時に  s_{m,n} 極限値があればそれを級数の和とする(Pringsheim)。これは上図の矩形の中の格子点に関する和である。今一つは上図のごとくcurveの中に含まれた格子点に関して和を作る。curveがすべてのsenseにおいて限りなく大きくなる時limitがあればそれを級数の和と定義する。これはフランス式の伝統である。前者はドイツ式である。結果は同じだが後者はすべての人に納得の行くようないかにも合理的な立場である。この頃では解析学のはじめに集合論を述べる習慣がある(蓄積は多くなるから本は厚くなる一方だ)。私はこんなふうに書いた。格子点(\mu,\nu)の集合M_1を考えこの格子点に関して和を作る。すなわち\displaystyle \sum_{(\mu,\nu) \in M}a_{\mu,\nu} = S(M_1). \: \: M_1, M_2, M_3, \ldots なる格子点の集合を考えどんな格子点 (\mu,\nu)もある番号の M_1に含まれる、すなわち M_1,M_2,M_3,\ldotsが集合 Mに収斂するとき S(M_1)がある決まったlimitに収斂するものとする。すなわち S(M_1) \to S(M). すべての M_1,M_2,\ldotsに関して同一のlimitがあればそのlimitを級数の和と定義する。二重以上の級数で実際解析概論で取り入れる必要があるのは絶対収斂の場合のみだという考えから集合の列はM_1 \subset M_2 \subset \cdots なるmonotonの場合に限っても用事はすむ。絶対収斂だからひとつのmonotonな列について収斂すればどんな列についても収斂する。集合論を予定して言っておるのなら次のように言うべきであった。格子点(\mu,\nu)の集合はabzählbar.その数え方で a_{\mu,\nu}の番号が \lambdaになったとして a_{\mu ,\nu}=b_{\lambda} とすればひとつのIndexの級数に書き表される。 \sum b_{\lambda} は決まっておるからひとつの番号付けについてsumがある。すべての番号付けに対して同一のsumがあればそれを級数の和とする。このように言うべきであったが私は伝統に引きずられた。かくすれば \sum a_{\mu,\nu} の定義から起こるいろんな面倒がなくかなり早く目標に達する。目標まで行ってしまえば同じことだが伝統的の名所旧跡をいちいち通らずに行くようなことになる。

絶対収斂の場合昔は順序に無関係に和が定まるという意味に用いられた。それに対して条件的という語がある。今では絶対値の級数が収斂する意味に使う。級数が収斂し絶対値の級数が収斂しない時には項の順序を変えて任意のlimitにtend せしむることができるということから絶対値の級数が収斂せねばならないとなるからそれでよい。結果は同じだが条件的に対する意味の絶対的とは意味が違う。この形式的なところはLandau式(私は自家用にLandau式と言っているが)である(彼があまり極端にやるので皆から目標にされる)。

伝統になると気がつかないが問題は微細なところにたくさんある。もっと自由な立場でごく初等的な万人向きの解析概論の出ることを希望する次第である。

(高木貞治.「解析概論」. 大阪帝国大学数学講演集. 第1, 岩波書店, 1935, pp.7-15)



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