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高木貞治 述, 大阪帝国大学数学講演「数学基礎論と集合論」

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の第三講演「数学基礎論集合論」を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
底本は国立国会図書館コレクションのものを用いています。
国立国会図書館デジタルコレクション - 大阪帝国大学数学講演集. 第1
目次→高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』 目次 - 牛丼時給調査会


数学基礎論集合論
昭和9年11月7日


私の心憶えでは今日は数学基礎論集合論とをお話しようとしていたのですがとてもまとまりそうもない。それに関係したことを少し述べます。よく数学を偉大なる建築と言ったものだが、今なら高層なビルディング。ちょうどビルディングと同じく地上に出ていない基礎工作がやはり数学にもあるので一層建築というたとえが適合するわけである。建築というとしかし出来てしまったもので動かない。数学では動くのである。建築なら成長する建築である。かかる大きな建築では階を上へ積み重ねることはできない。同時に基礎工作の補強をしなければならない。ここに基礎という問題が起こるわけである。かかる基礎の問題が過渡期、発展期、急激に発展する時期にともなって考察されたのではないかと思われる。そうでなくてもそうあって不思議ではないと思う。近頃では数学基礎論はあたかも数学の一科を成してひとつの技術的なものになった。昔は数学基礎論は無精者がやったものだが近頃は面倒になって長い式なんかが出てきて無精者には向かない。私どもは数学基礎論の簡単明瞭なることを欲するが、その反対で甚だ技術的なものになっている。それは素人の考えである。先年Wienへ行ったがあそこでは基礎論に興味を持つ人――専門家にGödel――が大勢居るが、私が基礎論が今少し簡単明瞭にならないものかと言ったら笑っていました。当分は不簡単不明瞭でもついには簡単になるという希望は捨てなくてもよい。数学を建築でなく大きな木のようなものと考えるならば上の方も根の方も同様な複雑さを持つからそれでもいいかも知れないが。

数学基礎論と同時に集合論が引き合いに出される。応用上の部分は別として抽象的集合論は基礎論に入れてもよいかもしれない。ここでは集合論に関してよく知られたことについて私は自分でおさらいしようと思う。

Wohlordnung,整列について。 これもよく分からない。よく分からないことを話すと笑われるかも知れないが。袋の中に集合が与えられているとする。それから要素を取り出して並べる。整列というのはひとつを置けばすぐその次がある。0,1,2,3,...と並べていくと限りなく並べることができるが並べきることはできない。今直線上に0,1をとり距離を半分にして2をとりまたその半分の距離を3にとる、というふうにしていくとあるところから先へは行かない(亀と兎の話)。
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0,1,2,3,...のすぐ後に来るものを\omegaとし今度は前と半分のscaleで同じように\omega, \omega+1, \omega+2, \ldotsと進む。
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この流儀で行けば直線上にどこまでものびていく。もしこんなふうにして直線上に置けなくなればもうひとつ直線をとって同じようなことをする。直線のとり方はその間が半分になるようにとる。
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それでも袋の中に残るならばさらに今一枚の紙を上に置いて進む。紙いっぱいになると\omega^{\omega^{\omega}} = \omega^{(\omega^{\omega})}. さらに紙を積み重ねてspaceがいっぱいになってもなお袋に残っておれば続いて同じようなことをする。袋の中にものがある限りいつまでもこのようにする。袋の中にそんなにたくさん入るであろうか?それは大丈夫である。ここでやっておるものを袋の中に入れておけばよい。これを仮に整列というとそれは決して行き詰まらないprocessである。かく素朴的に常識的に考えて、決して行き詰まらないprocess(例えば整列)はいつまでも続けられる。いつまでもというと時間の観念が入って面白くない。続けられるというと実行できるようなにおいがある。"いつまでも"を用いないで他にうまい言葉はないか?僕の案では次に来るpredicateは"決して行き詰まらないprocessは決して行き詰まらない"。これはverité.いわゆる愛すべきもの。そっちの方はつまらないが整列が行き詰まらないprocessであるということは興味がある。整列というprocessは決して終わらない。それを拡張すると"決して終わらないものは決して終わらない"。同じ言葉でも言い表し方を変えると変なふうになる。袋の中に取れないものがあっても今のように並べると尽きるまでは続く。袋の中のものが尽きないような集合も考えられる。

次にWohlordnungssatz(整列定理)。どんな集合でも整列できるというのである。整列は順序があり、どんな部分集合をとって来ても最初の要素がある。長く言えば先に述べたようになる。証明の要点だけをやる。それは通例いわゆる選出の原則の公理を基礎としてやる。Mを与えられた集合とする。Mからひとつの要素をとる。ひとつとった残りからまたひとつとるというのではまずい。すべての部分集合からとってもらうものを決めておいて順番が来たらとってもらうのである。すべての部分集合についてそんなことができておるから必要以上、十分である。さっきの例をその原則で行ってあるところでやめたものを \mit{\Gamma}-列というとそれは整列集合のひとつの霊である。整列定理の決定的の部分は(そこはなかなかうまい)そういう\mit{\Gamma}-列に加わることのできる要素全部の集合を考えても整列しておるというところにある。この集合をLとする。終わらせる下心があるからLとするのである。LMのすべての要素を含む。もし残っておるならば残りの部分集合から代表者\lambdaをとってLにくっつけてL\lambdaをつくる。これは\mit{\Gamma}-列である。ところがL\mit{\Gamma}-列に加わる要素をすべて含むからそれは矛盾だというのである。

このようなことを聞かされて第一印象はインチキ、種の明らかな手種。うまく言いくるめられたという感じである。納得させるという弁論でなく説き伏せるのである。ここの証明ではすべての\mit{\Gamma}-列を集める、これを我々の言葉で翻訳すれば(慎重に言わないと具合が悪い)どこまでも続けられるものを終わったかのごとく見る。我々は先に終わらないのを見て来たが全体を考えて終わらないものを終わったと言えば矛盾が出るに決まっておる。それはしかし大体の感じを言ったまでで何も整列定理に反対したというわけではない。定理を遠方から礼拝していてはいけない。前から見ると荘厳でも裏へ回って見るとザラザラする。飾りのついた正面から見るのも良いが、整列定理に本当に親切であるのなら横、後、いろんな方面から押して見るがよい。別に正体を暴露する悪意があるのではない。我々の問題であるから、人を説得する力を増すことは希望の至りで、そのためには既にあるものをそのままでは済まさない。強いよりもなお強くいろんな方面から触れて見るのである。少し言い方が乱暴でお叱りを被るかもしれない。これが第一証明、その後も一層精巧な年の入った証明ができている。

私は専門家でもなくまた専門的なことを述べる時間もない。時間が5分ばかり残ったがこれで――まず終わりとする。問題は終わらない。

昨日少し言葉が足りなかった。整列定理の証明に対する一番しまいの非難、不満の時に今少し明瞭にその点を述べておけばよかった。

昨日妙な円を描いたが、いわゆるOrdnungszahlの円であります。それはZermeloのすべての\mit{\Gamma}-列の集合のでもあり、またもっと古いBurali-Fortiの凡ての順序数の集合の円でもあります。一方の証明、一方はparadox!基礎論は頭の中で考えるべきでしょう。それを口先で証明にしたりparadoxにしたりする。実質的に同じものが三寸の舌頭で証明になったり、不合理になったりするようでは、数学基礎論の前途は遼遠と思われます。

(高木貞治.「数学基礎論集合論」. 大阪帝国大学数学講演集. 第1, 岩波書店, 1935, pp.16-28)



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