以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の「講演者の辞」を@tacmasiが新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。
底本は国立国会図書館コレクションのものを用いています。
国立国会図書館デジタルコレクション - 大阪帝国大学数学講演集. 第1
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講演者の辞
昨年初秋、大阪帝大の数学教室を訪問して、数日を過ごした間に、小生は学生諸君のために四回の講演を致したことには、正に相違ありません。講演とはいうものの、それは学術的の講演というようなそれではなくて、むしろ座談、あるいは事実に即して言えば、講義室での立ち話で、要するに、不用意、impromptuなる、いわゆる漫談といったようなものであったのです。だから今年の春に正田君から、その講演の筆記を見せられて、それを出版したいといわれて、実は面食らったのであります。あのような談話が筆記されていようとは、思いもよらないことであるのに、その筆記には吉田、黑田、淺野の諸君の手で、興味多き注釈ようの添え書きまでが用意されてあるのを見て、更に恐縮致しました。そのような御骨折を無にすることは出来なかろうと考えまして、出版に同意した次第でありますが、それと同時に、この小冊子の読者諸君に対しても恐縮に存ずる次第は、上記のように不用意なる談話の筆記は到底困難で、とにかく標語的というか、catchword, Stichwortというような部分が特に目立って、それらの間の連絡、すなわち話の筋という方の側面は十分紙上に表れているとは言い難いのは当然で、止むを得ないことと考えられます。もしも読者が、謎のようなそれら標語の間に自由に連絡を付けて、談者の意ある所を付託されるならば幸甚であります。
元来このような不用意な講話はその場限りに聞き流された方が宜しかったのであります。そうして聞き流している中に、もしも何かの示唆でも得られることがあるならば、それが拾い物なのでありましょう。チョークやインキの香りに満ちた雰囲気の中よりも、散歩なり、食事なりでもしながら、話しもしまた聞きもしするほうが、むしろ適当であるような、それは話でありました。食事と学問とを一緒にするなどはもってのほかの不謹慎とお叱りがあるかも知れないが、しかし咀嚼、消化、吸収など、両者の間にessentialな点においてhomomorphicなところがだいぶあるようではありませんか。一例を挙げるならば、談話中に引用しました「
聞き流さるべき談話が筆記せられ、印刷せられたことについて、何か弁解をせねば済まないような気持ちで、屋上に屋を架してさらに無用の印刷を延長するに至ったことをお許しください。
(昭和10年7月10日)