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高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』 目次

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
底本は国立国会図書館コレクションのものを用いています。
国立国会図書館デジタルコレクション - 大阪帝国大学数学講演集. 第1


講演者の辞
tacmasi.hatenablog.com

「過渡期の数学」
tacmasi.hatenablog.com

「解析概論」
tacmasi.hatenablog.com

数学基礎論集合論
tacmasi.hatenablog.com

「p-進数と無理数論」
tacmasi.hatenablog.com

以上

講演者の辞 (高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』)

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の「講演者の辞」を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。
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講演者の辞


昨年初秋、大阪帝大の数学教室を訪問して、数日を過ごした間に、小生は学生諸君のために四回の講演を致したことには、正に相違ありません。講演とはいうものの、それは学術的の講演というようなそれではなくて、むしろ座談、あるいは事実に即して言えば、講義室での立ち話で、要するに、不用意、impromptuなる、いわゆる漫談といったようなものであったのです。だから今年の春に正田君から、その講演の筆記を見せられて、それを出版したいといわれて、実は面食らったのであります。あのような談話が筆記されていようとは、思いもよらないことであるのに、その筆記には吉田、黑田、淺野の諸君の手で、興味多き注釈ようの添え書きまでが用意されてあるのを見て、更に恐縮致しました。そのような御骨折を無にすることは出来なかろうと考えまして、出版に同意した次第でありますが、それと同時に、この小冊子の読者諸君に対しても恐縮に存ずる次第は、上記のように不用意なる談話の筆記は到底困難で、とにかく標語的というか、catchword, Stichwortというような部分が特に目立って、それらの間の連絡、すなわち話の筋という方の側面は十分紙上に表れているとは言い難いのは当然で、止むを得ないことと考えられます。もしも読者が、謎のようなそれら標語の間に自由に連絡を付けて、談者の意ある所を付託されるならば幸甚であります。

元来このような不用意な講話はその場限りに聞き流された方が宜しかったのであります。そうして聞き流している中に、もしも何かの示唆でも得られることがあるならば、それが拾い物なのでありましょう。チョークやインキの香りに満ちた雰囲気の中よりも、散歩なり、食事なりでもしながら、話しもしまた聞きもしするほうが、むしろ適当であるような、それは話でありました。食事と学問とを一緒にするなどはもってのほかの不謹慎とお叱りがあるかも知れないが、しかし咀嚼、消化、吸収など、両者の間にessentialな点においてhomomorphicなところがだいぶあるようではありませんか。一例を挙げるならば、談話中に引用しました「勿嘗糟粕(そうはくをなむるなかれ)」の一件などは、食事へのAbbildungにおいて考えるならば、意味がよく徹底するのではないでしょうか。またしても脱線して、尾籠千万、御海容を願わねばなりませんが、惣じて今回の談話中、言語がとかく不謹慎、無作法にわたりまして恐縮であります。それは直裁的に意味を強調せんとする意図から出たのであったことをご諒察願います。

聞き流さるべき談話が筆記せられ、印刷せられたことについて、何か弁解をせねば済まないような気持ちで、屋上に屋を架してさらに無用の印刷を延長するに至ったことをお許しください。

(昭和10年7月10日)


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高木貞治 述, 大阪帝国大学数学講演「p-進数と無理数論」

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の第四講演「p -進数と無理数論」を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
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p -進数と無理数
昭和9年11月8日


今日はp -進数と無理数論をお話するはずでした。ゆうべ少し考えてみたが、とてもまとまりかねるから、その一部分無理数に関係したことを述べる。別に新しいことではなく、古くからの問題である。

昔は数よりもむしろ量あるいは数量と言ったもものが、もとの何というかprimärな考えである。それから数が出てきたと考えられる。量を特徴づけるために三つのAxiom(公理)を設ける。

I.量を集合と考えるとその要素の間に
{ \displaystyle
a=b, \: a\lt b, \: a\gt b
}
のいずれかひとつが成立する。すなわち大小の公理。
(これに関しては普通の関係式例えば a \lt b,b \lt cならばa \lt c等のことはすべて成立するものとする)

II.連続性の公理。これはDedekindの切断によって規定する。

このふたつだけでは足りない。それは古い本にはmessbar(測り得る)と言っていた、量を測ることに関する公理、

III.加法の公理。 a+b=c

我々が普通、量と言うのはいわゆる絶対的の量である。正とか負とかいうのは二次的のもので、拘泥しないで言えば絶対値である。しかるとき加法は交換律および結合律の外に大小の意味にしたがって単調なるものとする。すなわち
 {\displaystyle
		a \gt a', \: b \gt b' \: ならば \: a+b \gt a'+b', \: a+b \gt a \: \: 等
}
これだけで我々の量を特徴づけることができる。これを量と考えてそれを表す表現(Darstellung)として数を考える。歴史的にはかくして現今の数の概念が出来たのであるが19世紀以後の解析教程においては量はのけられておる。それには歴史的原因があるが、量を離れていきなり無理数の定義が出てくる。なるべく早くやろうとするために、そこでは特に正ということは出てこないので正も負も一緒に込めて実数論をはじめに置く。正は絶対値として使われるのである。はじめに絶対的の量と言うたのは絶対値であったのだから今のような因縁を言えば絶対値のほうが古いのであるが、解析においては絶対値は従属的な位置にあった。近頃はBewertungstheorieによって絶対値が大いに名声を回復した。そんな考えからp-進数と無理数論をお話しようとしたのであるがとても筋を立ててお話することはできない。

今I,II,IIIによって規定される量Sの表現として数を考える。なるべく手軽にしようとすれば無限小数を使うとよい(何進法でもよいが、仮に10進法を使う)。数字の無限の列
 {\displaystyle
		a_0.a_1 a_2 \cdots a_n \cdots
}
を考える。ここにa_0は任意の整数でa_1,a_2,\cdots ,a_n,\cdotsは0から9までの間の数値である。これについては先に簡易なる無理数論として書いたことがある。10進法で実数を組み立てようとすると、それはあまり俗なものだ、下等だ、DedekindやCantorそのままの方が権威があるといって叱られるかも知れないが、Sを表現するSystemを作ってしまえばよいから技術的に簡単な方がよいと思う。

まず大小の規定であるが、ふたつの数字列
 {\displaystyle
		a_0. a_1  a_2  \cdots a_n  \cdots \\
		a_0'.a_1' a_2' \cdots a_n' \cdots
}
においてその整数部分a_0a_0'とを比べて大きい方をもって大とする。a_0a_0'が同じならば小数第一位の文字a_1a_1'とを比べてその大きい方をもって大とする。さらにa_1a_1'も同じならば小数第二位の数字a_2a_2'とを比べる。等々。このようにして大小が定まる。もちろんすべての数字が一致すれば相等しいとするのである。この大小の意味に従って今考える数字列(単に数と呼ぶ)の全部が連続の定義を満足しなければならない。連続の結果としてふたつの相異なる数の間にまた数が存在しなければならない。今
{\displaystyle
		\alpha  = a_0. a_1  a_2  \cdots a_n  \cdots \\
		\alpha' = a_0'.a_1' a_2' \cdots a_n' \cdots
}
を異なるとすればどれかの数字が異なる。どこで異なっていても話は同じことだから、仮にa_0 \lt a_0'とする。a_0,a_0'が相続く整数でなければa_0'a_0との間に来たる整数を整数部分とする数字列が\alpha\alpha'との間に来ることは明らかである。a_0,a_0'が相続く数であるとき、例えば4,5となるとき\alpha\alpha'との間に来たる数は5.\cdotsかまたは4.\cdotsである。5.\cdotsとすれば後ろに続く数字がどこかで\alpha'の数字よりも小さくならねばならない。それができないのは0が続いて\alpha5.00\cdotsとなるときである。4.\cdotsとすればどこかで\alphaの数字よりも大きくならねばならない。それができないのは9が続いて\alpha4.99 \cdots 9 \cdotsとあるときである。それで形式的に相異なるふたつの数
 {\displaystyle
		4.999\cdots \: \: と \: \: 5.000\cdots
}
は相等しいとしなければならない。このように大小の定義をmodifyするのである。かくすれば連続性が成り立つ。連続性を証明するには次の定理を証明すればよい。

数字列の集合 \{ a_0.a_1 a_2 \cdots; a_0'. a_1' a_2' \cdots ; \cdots \}
有界とすると上限がある。整数部分a_0,a_0',\cdotsを考えると有界だからその中で一番大きいものがある。それをa_0とする。次に整数部分がa_0となるものばかりをとって小数第一位の数字を考えるとその中で一番大きいものがある。それをa_1とする。このようにしてひとつの確立した数ができる。それがlimes.

次に加法。無理数論において有理数を仮定すると同様に有限小数を用い有限で切っておいて和を作りlimesをとる。

上の三つの公理において第三の加法の公理ははじめの二つと比べてconventionalだとかつて私は書いたが量を長さとして考えるとadditionなぞはnaturalである。もしSのDarstellungとしてtimeを考えると時間のadditionはすてきにconventionalだ。時間は動かぬものだから時間の和はconventionalと思うのである。それで加法を今少し変えることはできないか?すなわちどんな表現に対しても公平で自然的なAxiomで第三の加法の公理をおきかえることができないであろうか?うまく行かない。結論は持ち合わせていない。

homogenという性質は空間においても時間においても自然的である。加法ができればもちろんhomogenであるがhomogenだけでは加法は出ない。Hilbertが使ったSymbol
 {\displaystyle
		a_0+a_1x+a_2x^2+\cdots + a_nx^n + \cdots
}
ここでa_0,a_1,a_2,\cdotsは実数でx+はただ記号である。実は(a_0,a_1,\cdots,a_n,\cdots)と書いてもよい。このSymbolの間に大小を定義する。
それにはさきに述べた小数の場合とまったく同じようにまずa_0の大小によって、それで行かなければa_1の大小によって、さらにそれで行かなければa_2の大小によってというようにして大小の順位を決める。かくして大小の公理が成立する。この大小においては連続性は成り立たない。もし端を加えて-\infty \lt a_i \leq +\inftyまたは-\infty \leq a_i \lt +\inftyとすればちょうど先の小数の場合に大小の定義を少し修正して連続性が成り立ったと同様にここでも連続になる。端がないためにLückeができるので端をこしらえれば連続になるのである。すべての実数というかわりに0 \lt a_i \leq 1としても連続性が成立する。しかし加法は不可能。もし可能ならば
 {\displaystyle
		a_0+a_1x+ \cdots +a_nx^n+\cdots
}
の全体が我々の普通の意味の実数になる。しかしhomogenではある。したがってhomogenだけで加法を置き換えることはできない。数年前そんな問題を考えてみた。加法可能を当然としてのみこめばそれまでであるが、めくらで時間の観念しかない者には加法のAxiomはnaturalであるまいと思われる。

無限小数としての表現法をあまり軽蔑されるといけないからHilbertのSystemをもってきて、それと似ているからそれで信用を得ようというわけである!

[追記]I,IIの両公理に適合する「最小」minimumの型といえば実数と同型の集合が得られるであろう。しかしそれは消極的でまずい。それを言いもらした。

連日でたらめを言い、まことに不謹慎、不作法な言葉を用いたが悪意があるわけではなく、意味を強調するために礼節を失したのである。それにもかかわらず忍耐、寛大をもってお聞きくださったことを感謝する。

(高木貞治.「p-進数と無理数論」. 大阪帝国大学数学講演集. 第1, 岩波書店, 1935, pp.29-38)


(おわり)

高木貞治 述, 大阪帝国大学数学講演「数学基礎論と集合論」

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の第三講演「数学基礎論集合論」を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
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数学基礎論集合論
昭和9年11月7日


私の心憶えでは今日は数学基礎論集合論とをお話しようとしていたのですがとてもまとまりそうもない。それに関係したことを少し述べます。よく数学を偉大なる建築と言ったものだが、今なら高層なビルディング。ちょうどビルディングと同じく地上に出ていない基礎工作がやはり数学にもあるので一層建築というたとえが適合するわけである。建築というとしかし出来てしまったもので動かない。数学では動くのである。建築なら成長する建築である。かかる大きな建築では階を上へ積み重ねることはできない。同時に基礎工作の補強をしなければならない。ここに基礎という問題が起こるわけである。かかる基礎の問題が過渡期、発展期、急激に発展する時期にともなって考察されたのではないかと思われる。そうでなくてもそうあって不思議ではないと思う。近頃では数学基礎論はあたかも数学の一科を成してひとつの技術的なものになった。昔は数学基礎論は無精者がやったものだが近頃は面倒になって長い式なんかが出てきて無精者には向かない。私どもは数学基礎論の簡単明瞭なることを欲するが、その反対で甚だ技術的なものになっている。それは素人の考えである。先年Wienへ行ったがあそこでは基礎論に興味を持つ人――専門家にGödel――が大勢居るが、私が基礎論が今少し簡単明瞭にならないものかと言ったら笑っていました。当分は不簡単不明瞭でもついには簡単になるという希望は捨てなくてもよい。数学を建築でなく大きな木のようなものと考えるならば上の方も根の方も同様な複雑さを持つからそれでもいいかも知れないが。

数学基礎論と同時に集合論が引き合いに出される。応用上の部分は別として抽象的集合論は基礎論に入れてもよいかもしれない。ここでは集合論に関してよく知られたことについて私は自分でおさらいしようと思う。

Wohlordnung,整列について。 これもよく分からない。よく分からないことを話すと笑われるかも知れないが。袋の中に集合が与えられているとする。それから要素を取り出して並べる。整列というのはひとつを置けばすぐその次がある。0,1,2,3,...と並べていくと限りなく並べることができるが並べきることはできない。今直線上に0,1をとり距離を半分にして2をとりまたその半分の距離を3にとる、というふうにしていくとあるところから先へは行かない(亀と兎の話)。
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0,1,2,3,...のすぐ後に来るものを\omegaとし今度は前と半分のscaleで同じように\omega, \omega+1, \omega+2, \ldotsと進む。
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この流儀で行けば直線上にどこまでものびていく。もしこんなふうにして直線上に置けなくなればもうひとつ直線をとって同じようなことをする。直線のとり方はその間が半分になるようにとる。
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それでも袋の中に残るならばさらに今一枚の紙を上に置いて進む。紙いっぱいになると\omega^{\omega^{\omega}} = \omega^{(\omega^{\omega})}. さらに紙を積み重ねてspaceがいっぱいになってもなお袋に残っておれば続いて同じようなことをする。袋の中にものがある限りいつまでもこのようにする。袋の中にそんなにたくさん入るであろうか?それは大丈夫である。ここでやっておるものを袋の中に入れておけばよい。これを仮に整列というとそれは決して行き詰まらないprocessである。かく素朴的に常識的に考えて、決して行き詰まらないprocess(例えば整列)はいつまでも続けられる。いつまでもというと時間の観念が入って面白くない。続けられるというと実行できるようなにおいがある。"いつまでも"を用いないで他にうまい言葉はないか?僕の案では次に来るpredicateは"決して行き詰まらないprocessは決して行き詰まらない"。これはverité.いわゆる愛すべきもの。そっちの方はつまらないが整列が行き詰まらないprocessであるということは興味がある。整列というprocessは決して終わらない。それを拡張すると"決して終わらないものは決して終わらない"。同じ言葉でも言い表し方を変えると変なふうになる。袋の中に取れないものがあっても今のように並べると尽きるまでは続く。袋の中のものが尽きないような集合も考えられる。

次にWohlordnungssatz(整列定理)。どんな集合でも整列できるというのである。整列は順序があり、どんな部分集合をとって来ても最初の要素がある。長く言えば先に述べたようになる。証明の要点だけをやる。それは通例いわゆる選出の原則の公理を基礎としてやる。Mを与えられた集合とする。Mからひとつの要素をとる。ひとつとった残りからまたひとつとるというのではまずい。すべての部分集合からとってもらうものを決めておいて順番が来たらとってもらうのである。すべての部分集合についてそんなことができておるから必要以上、十分である。さっきの例をその原則で行ってあるところでやめたものを \mit{\Gamma}-列というとそれは整列集合のひとつの霊である。整列定理の決定的の部分は(そこはなかなかうまい)そういう\mit{\Gamma}-列に加わることのできる要素全部の集合を考えても整列しておるというところにある。この集合をLとする。終わらせる下心があるからLとするのである。LMのすべての要素を含む。もし残っておるならば残りの部分集合から代表者\lambdaをとってLにくっつけてL\lambdaをつくる。これは\mit{\Gamma}-列である。ところがL\mit{\Gamma}-列に加わる要素をすべて含むからそれは矛盾だというのである。

このようなことを聞かされて第一印象はインチキ、種の明らかな手種。うまく言いくるめられたという感じである。納得させるという弁論でなく説き伏せるのである。ここの証明ではすべての\mit{\Gamma}-列を集める、これを我々の言葉で翻訳すれば(慎重に言わないと具合が悪い)どこまでも続けられるものを終わったかのごとく見る。我々は先に終わらないのを見て来たが全体を考えて終わらないものを終わったと言えば矛盾が出るに決まっておる。それはしかし大体の感じを言ったまでで何も整列定理に反対したというわけではない。定理を遠方から礼拝していてはいけない。前から見ると荘厳でも裏へ回って見るとザラザラする。飾りのついた正面から見るのも良いが、整列定理に本当に親切であるのなら横、後、いろんな方面から押して見るがよい。別に正体を暴露する悪意があるのではない。我々の問題であるから、人を説得する力を増すことは希望の至りで、そのためには既にあるものをそのままでは済まさない。強いよりもなお強くいろんな方面から触れて見るのである。少し言い方が乱暴でお叱りを被るかもしれない。これが第一証明、その後も一層精巧な年の入った証明ができている。

私は専門家でもなくまた専門的なことを述べる時間もない。時間が5分ばかり残ったがこれで――まず終わりとする。問題は終わらない。

昨日少し言葉が足りなかった。整列定理の証明に対する一番しまいの非難、不満の時に今少し明瞭にその点を述べておけばよかった。

昨日妙な円を描いたが、いわゆるOrdnungszahlの円であります。それはZermeloのすべての\mit{\Gamma}-列の集合のでもあり、またもっと古いBurali-Fortiの凡ての順序数の集合の円でもあります。一方の証明、一方はparadox!基礎論は頭の中で考えるべきでしょう。それを口先で証明にしたりparadoxにしたりする。実質的に同じものが三寸の舌頭で証明になったり、不合理になったりするようでは、数学基礎論の前途は遼遠と思われます。

(高木貞治.「数学基礎論集合論」. 大阪帝国大学数学講演集. 第1, 岩波書店, 1935, pp.16-28)



第四講演「p-進数と無理数論」へ

高木貞治 述, 大阪帝国大学数学講演「過渡期の数学」

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の第一講演「過渡期の数学」を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
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高木貞治「過渡期の数学」
大阪帝国大学数学講演, 昭和9年11月5日

私が高木です。大阪帝大の学生諸君とは今回がはじめてです。私は知らない人に話をするのはどうも不得手ですから分かりにくいかも知れない。過渡期の数学と題したのははじめそう予定したのですが、これから話すことが果たして当たっているかどうか分かりません。

数学の歴史を後から振り返ってみると、いろいろ時代と共に変遷したことは確かですが、それを進歩とみて絶えず進歩した言ってしまえばそれきりであるが、その状況を見れば必ずしもなだらかに一様な速さで進んでいるとは見られない。それをごく大まかなcurveで示すとfirst approximationとしてTreppen-Funktionと見られる。すなわち階段的になっている(図1)。進歩の速度は階段的に昇っていく。さらに詳しく言えば図2のようになるであろう。遠方は我々の頭の中に直線的に感ぜられるが近いところでは平坦と言えないかも知れない。
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一番はじめの階段は微積分学の発見時代に相当する。それからが、ギリシャ伝来の数学に対する広い意味の現代的数学であります。かくして新しい領分が開けたわけですから、直後は高まるというよりもむしろ広まる時代、拡張の時代です。それが18世紀の数学です。19世紀に移るあたりにやはりかかる階段(Treppe)があります。すなわちこの時も急激に変わった時代です。一人の代表者を選ぶならば例えばGauss. 急激に変わりつつある時代を過渡期と言うならば現代も過渡期のうちでしょう。私はそういう一つの「テーゼ」を提出したい。ちょうどこれは20世紀の始まりです。

もしも数学者の表を時代順に書き込めばTreppeのところに、殊にTreppeの直後のところに密に集まるだろうと思われる。この図では上に昇るようにcurveを書いたが広がるようにもなります。はじめは知識が水の滴りのように集まって川のごとく自らの道を拓きつつ進む。それがある障害に出逢うと真っ直ぐに進むことは止まる。そして先へ行く代わりに横に広がる。ある時期を過ぎると障害を乗り越える高さに達しちょうど滝のごとく一気に下の平野に広がっていく。そういった後は急に広くなる。つまり行き詰まりを生ずる時が来る。来なければそれきり。来ればそれを打開して同じようなことが繰り返されるのである。行き詰まりの前は停滞しそれを乗り越えるとまた勢いを得る。そういうことは当然あって然るべきことです。

行き詰まりを乗り越えるのだと考えると、行き詰まりの時代にどうして局面をひらくことができるか、すなわち行き詰まりを打開する原動力は何であるかというに、Cantorの言ったように「数学の本質はその自由性にあり」と言うならもっともらしい。自由性とはFreiheitの訳です。日本語では自由という言葉ははじめ政治的の意味に使われたのだからFreiheitとしっくり合わぬかもしれない。Freiheitとは囚われない、拘束されないという意味です。freiでない例は卑近なところにたくさんあるが多すぎて却って挙げにくい。例えば私の家の電話番号は4823ですがこの3桁と4桁との間に"コンマ"を入れて4,823と書いている。パリのように48|23とすれば分かりよいのに、何でも3桁おきに"コンマ"を付けねばならないと思うならば、それはひとつの囚われです。また自動車の速度10マイル以内という札がメートル法により換算されて16.78...km.となっているのも囚われた例のひとつです。この言葉をCantorが言った機会を詳しく調べたことはないがCantorがかく言った動機は容易に想像される。彼が集合論を言い出した時、当時の先輩達から容易に理解されなかった。彼らは彼と同様にfreiには考えてくれなかった。そこに障害があった。それに反抗するような境遇にあったからそういう言を出す機会はいくらでもあったであろう。

数学でよく拡張と言うことを言いますがFreiheitと同様な意味の相通ずるところがあります。真の拡張はfreiでなければできません。拡張は数学史上重大な事項です。拡張するためには元あった制限を除かなければならない。抽象、abstractionが拡張のひとつの手段です。抽象はもとあった具体的なものをのけてすべてを含む新しいものを作り出すことです。抽象化の際立って進むのが先に述べたような階段のところだと言えば言われる。現代が急激に変わる数学の過渡期だろうというようなことを言ったが現代はまた特に抽象化の著しく目立つ時代である。歴史というものは振り返って見てわかることだから現代においてはそれが過渡期であるか否か分からないが今は過渡期であろう、すなわち急激に変わりつつある時代だろうということは確からしい。なぜかというに少しなまけているとわからなくなってしまう。それは現に私が実験しつつある。とにかく現在急激に変わりつつあることは確かで、その一番主な現象は抽象化です。事実は世界大戦の終わり頃すなわち1920年頃から今日まで約10年の間に起こりつつある。抽象の過程が時期に投じたのである。それがどこまで行くかわからないがとにかくそれが始まりつつある。現在は変化が始まったばかりゆえそれだけで済んでしまうものかどうか分からない。あるいはもっと先に進んでいくかも知れない。これに新しい動機が加わってくるかも知れない。

数学の中の専門が増えて困るということをよく聞く(これは私ばかりかも知れないが)。Kleinが「3つの大きなA」ということをよく言った。それはArithmetik,Algebra,Analysisを指すので、これが数学の大きな分科である。もっとも幾何学も大きな分科であるがKleinはこれを別格に扱った。3つのAに更に幾何学を入れてもよい。このように分科をもって予め用意された引き出しに整理するが、その分科が増えてくるので、これでは整理ができかねるということを聞いた。しかし今はもうそういうことを言っても仕方がないから言わなくなったのかあるいは耳に慣れたのかもしれないが一時ほど著しくはないようである。むしろ分科の多いのを喜ぶ傾向があるかに見える。あらかじめ用意した引き出しの中に入れることをあきらめてしまえば、分科など多いほど賑やかでよいのだろう、現今数学の分類をするならば、modernとclassic,古典と新代に分けたらどうだろう。それが重要な分類と考えると双方に盛り込まれる「3つのA」だとか幾何学だとかいう数学の分類には第二次的になってくるので、そういう声は大した印象を与えなくなる。古典と新代の対立、かかることはいつの過渡期においても常に起こったのではなかろうかと思われる。つまり興味の対象が変わるのである。悪く言えば流行が変わるのである。従来興味の中心とされていたものがいつの間にか忘れられ、前には全く省みられなかったものが興味の中心となるのである。幸い各時代を代表する有名な本が残っている。classicといっても別に軽蔑するわけでもなくまた劣っておるわけでもないがいわゆる古典なるものを読むと実に退屈なものです。どうしてそんな事に興味をもったのか今から考えると分からないことがある。必ずしもclassicが悪いというわけではないが、それに対する評価が変わるのである。Cantorの格言を言い換えるならば、「数学に経典なし」であろう。

とりとめもないことを述べたが、要するに過渡期の特徴は第一、非常に急激に変わるゆえ少しなまけているとわからなくなる。興味の対象が変わってくる。これからはじめて数学をやろうという人には参考になるかもしれない。いつもと違う過渡期であるから、今ひとつはclassicとmodernの対立。数学を「3つの大きなA」だとか幾何学だとかに分けて考えるのはstableの時ならいいが過渡期となるとむしろmodernとclassicに分けたほうがよい(classicが悪いのではない。classicには深いところがある)。これから勉強するものは早く専門を決めないで深くというよりは早く広く行ったほうがよい。伝統的の分類によって何をやろうなどとは言わないほうがよい。

(高木貞治.「過渡期の数学」. 大阪帝国大学数学講演集. 第1, 岩波書店, 1935, pp.1-6)


第二講演「解析概論」へ

高木貞治 述, 大阪帝国大学数学講演「解析概論」

以下は、高木貞治 述,大阪帝国大学数学講演集第1『過渡期の数学』内の第二講演「解析概論」を@が新字・新かなに改め、一部を漢字→かな表記へ変更したものです。なお、注釈は含まれておりません。
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高木貞治「解析概論」
大阪帝国大学数学講演 昭和9年11月6日


少し遅刻しました。私は遅刻の常習犯です。今日は解析概論という題でお話するつもりで来ました。知識の宝庫ということをよく言いますが、それはいろいろ解釈がつく。ごくぼんやり言えば諸君が毎日講義を聞いてノートに書くと、ノートがその知識の宝庫になり、一年の間にかなりの分量になる。一般に知識というといろいろの意味があるであろうが、ここでは数学でいう意味の知識、つまり真なるものと言えば、それだけの意味でそれ以外のことを含まない。ポアンカレがどこかで「真なるもの(verité)のみが愛すべきものである(aimable)」と言っておる。そんな意味で、今お話しようとしている。veritéという言葉をいつか日本語で書く必要にせまられた。真なるものというとはっきりするようだが真理などというとveritéというよりもさらにエライものを含んでいるらしい。何だか大したもので、天の上にあって近づきがたいものだという気がする。その代わりまた真ならぬものを含むかもしれない。"真なるもの"などあまり熟した語ではないが「まこと」というとveritéはだいぶ違うようだ。とにかく真なるものというのは、そんな荘厳なものでなく手近なもので例の宝の倉としてたくさんあるとはノートを取ることから皆経験されている。「真なるもののみ愛すべし」と言っても「真なるものすべて愛すべし」と言ったのではない。それは裏である。裏を考えれば知識の宝庫はまた同時に知識の"ガラクタ"である。別に知識そのもの、真なるものそのものに決まった価値があるわけではなく、人に対してである。別に宝というわけではなくむしろ雑然と倉の中に累積しておる、いわゆる知識の集合である。"ガラクタ"と言っては悪いかもしれないがとにかく非常に多くて少々宝という感じより現在の我々には知識は多すぎて困るものだと感じられる。

知識から宝にしようというには、宝なるものを選ばなければならない。すなわち選択の問題が起こる。先日はここの図書室(大阪帝国大学理学部図書室)を見せてもらった。片隅に知識の倉庫がぎっしり詰まっている。こちらの壁を眺めると長岡先生の額が掛かっていて「勿嘗糟粕(そうはくをなむるなかれ)」とある。何と言うか、まず痛快である。知識の倉に入っても注意せよという危険信号が掲げてある。ただ集合として存在するものに我々はいかなる態度を取るべきかが問題である。何時だったか1826年と記憶しているがアーベルの手紙の中に「自分は数学において何がessentialで何がtrivialであるか分かった。だからパリにいなくてもよい。国へ帰りたい」ということが書いてある。実際essentialとtrivialとを差別するのが学問かもしれない。ノートがたくさん溜まって試験を受けなければならない時、どこがessentialでどこがtrivialだか分かっておれば合格するがそれが分からなくて数百頁を差別なく同じように見るのでは心細い。アーベルの言のごとくessentialとtrivialとを見分けなければならない。

解析概論というのは仮にそんな名前をつけた。私は解析学をよく知らないが講義をする必要上若干の書物を読んだのですがいろいろな事実がたくさんある。それをすっかり書いてしまえば訳なくいくが狭いところにはたくさん入れるわけにはいかない。私など忘れっぽくて記憶することができない。つい先日もこんな話が出たが、試験で有名な高等学校の選抜試験であそこでは数学を暗記物として扱うからよいとかわるいとか言う。非難の意味でいうので数学は暗記物でないと言うつもりでしょう。しかしいろんなものを見るとやっぱり暗記物のようですね。誰それの定理などと実にたくさんあります。数学必ずしも暗記物でないとは言われないかも知れないと思います。すっかり包括するのならよいが、その中からあるものを選ぶとなるとたくさんのものを集めるのでなくてなるべく少しのものを集めることが必要になる。それをやろうとするとなかなかむずかしい。そこで私は一定の建物が与えられたとしてそこへ何を入れるかを問題にしたのであるが、その時一番邪魔になるのは伝統に引きずられると言うことです。後から考えるとどういうつもりでこんなものを取り入れたのだろうかと不思議に思うことがある。書くときはあまり多くの反省なく伝統に従って大切だろうと思って詰め込むというものがたくさん出てくる。いちいち当たっておると大変で始末におえない。そんなにやかましくいわなくてもよいが。

昨日も言ったようにこの頃は数学の情勢が変わりつつある時で解析の本もいろいろ出るが不思議に言い合わしたように同じ内容のものばかりである。皆伝統によって書かれておるのではないかと思われるほど一致しておるように思えた。もっとも一致しているものばかりが目につくのかも知れないけれど。むやみに伝統を破るのはよくないが、そればかりで行くといつまでも同じようなものが続くようなことになりはしないか?そうでないものが出るのもよいと思う。趣意としては枝葉的のことは第二におく。反対に何でもあるという書物もあるが選択の結果が問題になる。しかしめいめいが選ぶべきで何がessentialで何がtrivialであるかということは自ずから明らかであろう。もっとも人によって違いがあり万人向きは無理だが時代によってだいたい平均があるからその中からだいたい万人向きになるようにすることは不可能ではない。そういう意味であまり伝統によらず、なるべく大きくならないで、薄くていい本の出ることを希望しておる。

空論をお話して一向とりとめないが、ちょうどこの頃講義をしておるので覚えているのですが一つの例として級数についてお話したい。
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二重もしくは二重以上の無限級数、例えば \sum a_{m,n} の定義は2つあるように思われる。一つは \displaystyle \sum_{\mu=1,\nu=1}^{m,n}a_{\mu,\nu} = s_{m,n} として m \to \infty , n \to \infty となる時に  s_{m,n} 極限値があればそれを級数の和とする(Pringsheim)。これは上図の矩形の中の格子点に関する和である。今一つは上図のごとくcurveの中に含まれた格子点に関して和を作る。curveがすべてのsenseにおいて限りなく大きくなる時limitがあればそれを級数の和と定義する。これはフランス式の伝統である。前者はドイツ式である。結果は同じだが後者はすべての人に納得の行くようないかにも合理的な立場である。この頃では解析学のはじめに集合論を述べる習慣がある(蓄積は多くなるから本は厚くなる一方だ)。私はこんなふうに書いた。格子点(\mu,\nu)の集合M_1を考えこの格子点に関して和を作る。すなわち\displaystyle \sum_{(\mu,\nu) \in M}a_{\mu,\nu} = S(M_1). \: \: M_1, M_2, M_3, \ldots なる格子点の集合を考えどんな格子点 (\mu,\nu)もある番号の M_1に含まれる、すなわち M_1,M_2,M_3,\ldotsが集合 Mに収斂するとき S(M_1)がある決まったlimitに収斂するものとする。すなわち S(M_1) \to S(M). すべての M_1,M_2,\ldotsに関して同一のlimitがあればそのlimitを級数の和と定義する。二重以上の級数で実際解析概論で取り入れる必要があるのは絶対収斂の場合のみだという考えから集合の列はM_1 \subset M_2 \subset \cdots なるmonotonの場合に限っても用事はすむ。絶対収斂だからひとつのmonotonな列について収斂すればどんな列についても収斂する。集合論を予定して言っておるのなら次のように言うべきであった。格子点(\mu,\nu)の集合はabzählbar.その数え方で a_{\mu,\nu}の番号が \lambdaになったとして a_{\mu ,\nu}=b_{\lambda} とすればひとつのIndexの級数に書き表される。 \sum b_{\lambda} は決まっておるからひとつの番号付けについてsumがある。すべての番号付けに対して同一のsumがあればそれを級数の和とする。このように言うべきであったが私は伝統に引きずられた。かくすれば \sum a_{\mu,\nu} の定義から起こるいろんな面倒がなくかなり早く目標に達する。目標まで行ってしまえば同じことだが伝統的の名所旧跡をいちいち通らずに行くようなことになる。

絶対収斂の場合昔は順序に無関係に和が定まるという意味に用いられた。それに対して条件的という語がある。今では絶対値の級数が収斂する意味に使う。級数が収斂し絶対値の級数が収斂しない時には項の順序を変えて任意のlimitにtend せしむることができるということから絶対値の級数が収斂せねばならないとなるからそれでよい。結果は同じだが条件的に対する意味の絶対的とは意味が違う。この形式的なところはLandau式(私は自家用にLandau式と言っているが)である(彼があまり極端にやるので皆から目標にされる)。

伝統になると気がつかないが問題は微細なところにたくさんある。もっと自由な立場でごく初等的な万人向きの解析概論の出ることを希望する次第である。

(高木貞治.「解析概論」. 大阪帝国大学数学講演集. 第1, 岩波書店, 1935, pp.7-15)



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牛丼チェーン店アルバイト時給観測(牛丼短観) 20170218

20170218 現在、吉野家松屋すき家のアルバイト募集状況(日中、各店舗下限値。高校生時給・研修時給除く)は以下のとおりです。

Storetype 求人中店舗数[件] 上昇件数[件] 下落件数[件] 上昇-下落[件] 新規件数[件] 停止件数[件] 新規-停止[件]
吉野家 1209 0 0 0 0 1 -1
松屋 1073 1 0 1 1 0 1
すき家 1821 0 0 0 0 0 0
合計 4103 1 0 1 1 1 0



20170218 において、前回集計時( 20170211 )以降、日中求人時給が上昇した店舗は下記 1 件です。

Storetype 都道府県 上昇店舗名 20170211 時給[円] 20170218 時給[円] 対先週差[円]
松屋 千葉県 松屋 松戸店 980 1000 20



20170218 において、前回集計時( 20170211 )以降日中求人時給が下落した店舗はありません。

20170218 において、前回集計時( 20170211 )以降日中求人を開始した店舗は下記 1 件です。

Storetype 都道府県 新規求人店舗名 時給
松屋 福岡県 松のや 周船寺 830



20170218 において、前回集計時( 20170211 )以降日中求人を停止した店舗は下記 1 件です。

Storetype 都道府県 求人停止店舗名
吉野家 愛知県 吉野家 新瑞橋



データ元:
-松屋:「バイトル(時間:「昼」)http://www.matswork.biz/op182246/alist/tst2/
-吉野家:「バイトル(検索ワード:"-")」 http://www.baitoru.com/op71872/alist/tst2_btp1/wrd-/
-すき家:「すき家公式サイト(検索ワード:"-")」http://jobs.sukiya.jp/shops?k=-&page=1

データは下記リンク先の通りです。
https://raw.githubusercontent.com/tacmasi/gyudon/master/all_gyudon_colnameon.csv